朴正煕大統領を探して(3) ソウルで閣下の接見を受ける

1.閣下が眠る「国立顕忠院」

 東大門に明洞、会賢(南大門市場)、ソウル駅……ソウルを訪れる観光客が高確率で利用するのが地下鉄4号線である。繁華街を結ぶ路線なので、当然だが地元市民も大勢乗り込んでいる。
 この4号線、二村駅を過ぎて漢江を越える際に一旦地上へ出る。そしてそのまま、地上に設けられた銅雀駅に着くのだが、ここから人民大学習堂を思わせる瓦屋根の巨大な建物が見える。この施設こそ、韓国の国立墓地「国立顕忠院」で、北の大城山革命烈士陵に相当する。そしてここは、他ならぬ閣下が眠る場所なのだ。
国立墓地なのでとにかく敷地は広い。特に夏場などは炎天下を遮るものもなく歩かなければならないので、参拝時は要注意である。
私は地下鉄銅雀駅から一番近い入口から入ったので、正門の様子は最後に目にしたのだが、革命チックな銅像(噴水)が参拝者を出迎える。手前に憲兵がいなければ北の写真と言われても信用してしまいそうだ。
顕忠門と顕忠塔(左奥)。2005年8月にソウルを訪れた北の代表団が参拝したのもここである。この門の奥に広大な墓地が広がる。 おおおっ!顕忠塔横にも革命チックな銅像が。左右対称に設置されているのは万寿台っぽいぞ……と内心思うが、ここに眠る人々は北と戦って亡くなった人々。思っても決して声には出さない。
 基本的には朝鮮戦争で亡くなった韓国の英顕(英霊)をまつる場所だが、日本統治時代の反日闘士もここに眠っている。倭奴の観光客に参拝されても不快だろうとは思うが、目的は閣下の墓地なのでどうか祟らないで欲しい。

2.閣下の接見を受ける

 敷地面積は142万平米、今もなお開発が進むソウルに残された広大かつ静寂な空間である。とは言えここはあくまでも国立墓地、案内には「参拝時は敬虔な気持ちを抱き、心身共に清浄にした上で参拝して下さい」とあった。革命チックな銅像や戦闘機の展示を目にしてもはしゃいではいけない……あれ、中学生たちがそこかしこでギャーギャー騒いでいるではないか。学校の課題でスケッチをしに来ているようだが、不真面目に遊んでいる者の多いこと。これも時代の流れ、というやつだろう。

 閣下の墓地を目指してひたすら歩いていると、時刻が午前10時ちょうどを指す。とその時、どこからともなく荘重な音楽が流れ、やがて「半万年の歴史を誇る我が大韓民国の英顕が眠る……」云々と、渋い男性の声でナレーションが響き渡った。朝鮮中央放送に近いノリ、やっぱり北も南も同じ民族だ。
延々坂道を登り続けるが、どこまで行っても墓標、墓標、墓標……。 中腹あたりまで来ると、李承晩初代大統領と令夫人・フランチェスカ女史の墓地がある。終生反日を貫いた人物だけに、倭奴の私が参拝してもうれしくはないだろうが。
歩き続けること30分ほど、ようやく最上部に到着。この石段の上にあるものは……閣下と令夫人が眠る墓地である。この時点でもうウルウル。 閣下と令夫人の墓地が並んでおり、小さいながらも開城の恭愍王陵を彷彿とさせる。巨大な宮殿にまつるとか、遺体を生前の姿そのままに安置するとかすればよかったのにとも思うのだが、質素倹約を旨とした閣下にはこれがふさわしい。
閣下の墓地からは漢江とソウル市街を一望できる。今もダイナミック・コリアの隆盛発展を見つめているのだ。 閣下の墓地の向かい側にある丘は国家有功者の墓標が並ぶ。故人の銅像でもあれば大城山の風景そのものだったろう。
 かくして私は、閣下の接見を受けた。閣下は無言だったけれども、私は感無量である。朴正煕大統領を偲ぶ旅もここに終わりを告げた……つもりだったのだが、この後サプライズが待っていた。

3.永久保存されていた霊柩車

 坂を下り、帰路につく私。休憩所とおぼしき屋根が見えてきたので、一息つこうと近づいてみると、バスのようなものが収められている。何だろうと思って看板を読むと、閣下の国葬で使用された霊柩車だった。
おおおおおおおおおっ!!!霊柩車が永久保存されているではないか。またウルウルしてきた。
1979年11月の国葬時そのままに、霊柩車を飾る花までもがしっかり残され、太極旗に覆われた棺も見える。
 1979年10月、不慮の出来事でこの世を去った閣下。翌月の国葬時には4000万韓国民が慟哭した(私もこの悲報にリアルタイムで接しているはずなのだが、なにぶん子供だったので記憶にない)。
 あれから29年、韓国は閣下が夢見た通りに世界有数の経済大国へと成長し、民主化も実現した。左派勢力は閣下の施政を“独裁”云々と非難し、今やその功績も顧みられることが少ない。しかし、そんな豊かで自由な韓国の現状を、実は一番喜んでいるのは閣下自身に相違ない。今頃は天国で、大好きなマッコルリを飲みながら笑っていることだろう。(終)

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