開城ツアー体験記(3)/ナゾの開城百貨店

 開城ツアーは午前、朴淵瀑布&大興山城&観音寺を訪ねたあと、お昼ご飯の時間になる。開城南大門を通過するとすぐに民俗旅館に到着。バスは一台ずつバックで旅館の構内に入ってゆく。
6.民俗旅館でお食事
 開城名物は?と聞かれて「参鶏湯(サムゲタン)」と答えれば正解。「パンサンギ」と答えても正解である。最近では日本でもサムゲタンはお馴染みになってきたが、開城名物であることはまだ浸透していない。「私は開城で何度もサムゲタンを食べているが、日本でその話をしても誰も羨ましがってくれない。」とは私が韓国でよく使うギャグだが、本日の昼食は同様に開城名物というよりは古代王朝料理のパンサンギである。パンサンギとは…画像を見てもらった方が早いな。
昼食場所の民俗旅館。以前宿泊したことがあるが、夜になると高台にあるライトアップされた主席像がよく見える。 パンサンギ。我々北朝鮮トラベラーが開城で昼食をとるときはだいたいこれが出てくる。あっさりめの味付けで日本人好み。
我々北朝鮮トラベラーが通常経験する旅程は、朝のうちに平壌を出発し、午前は板門店を訪問、昼食は統一館で昼食ということが多いのだが、通常のツアーでは10名足らずの日本人客しかおらず、広い館内は閑散としていたものである。しかし今回は500名近い人数のため1号車から4号車が民俗旅館で、5号車から15号車までが統一館での食事である。
昼食会場の民俗旅館内白松食堂。 白松食堂内の販売商品。コチュジャンや人参系が多い。
 昼食会場ではすでに配膳されていたが、暖かいスープはチマチョゴリの同志達が持ってきてくれる。北レスのように歌や踊りでも披露してくれればと思っていたが、白松食堂は客でびっしり埋め尽くされ、移動にもカニのように横歩きが必要な始末。とても歌どころではない。上の右側写真中央手前に見えるのは「もち米コチュジャン」と書かれたもの。初めて見る商品だったし、ちょうどコチュジャン切らしていたので一つ買い求めたが(1米ドル)、仁川空港出国時の安全検査で「液体だから。」という理由で没収されてしまった。

  民俗旅館には12時20分から13時26分まで滞在。ウッディな門で外界とは完全に隔離されており、外にちょっと出てみるなんてことは思いも及ばない。構内には北朝鮮の本や地図やCDを売っている店があり、大音響で「パンガプスムニダ」を流していた。ここでは中国人民元も使用可能だが日本円はダメとのこと。出発時に「本は韓国に持ち込めないから買うな。」と言われていたが買った人、いるんだろうか?
構内の掲示板。新しくできた電車をご覧になる金日成主席(主体79年=1990年)とのキャプションが見える。 この門によって外の世界とは完全に遮断されている。
電車の画像については近くにいたチマチョゴリ姿の50歳くらいの女性(ちょっと高位の人だろう)に「どこで撮った画像ですか?」と尋ねたところ「平壌だ。」と言う。しかしこの配色の電車は以前咸興に行った時に咸興市内で目撃したものによく似ている。また以前民俗旅館を訪問した時はこういった木製の門ではなく、ガラガラと引くタイプのものであり、高さもなかったので向こう側が見えていたと思うが、記憶自信度は85%くらい。

7.ナゾの開城百貨店

 パンサンギとか掲示板とか門とかを堪能した我々は再びバスに乗った。バスは門を出ると左に曲がる。その瞬間、おおおおっ!!青いバスっ!!また青いバスっ!!またまた青いバスっ!!開城工業団地通過時に遠目に見たバスと同じである。中にはいっぱいの人民達。立っている人民もいる。この開城ツアーでは人民達と触れ合う機会などないがこの時にお互いの目が合った。すれ違いざまに何度も何度もである。いったい彼女達(ほとんどが女性)は南側からの観光客を見て何を感じているのだろうか。バスは全部で6台。「開城工業地区管理委員会」と書かれていた。
これは翌日(2008年3月2日)にソウル市庁近くで撮ったもの。これと同じバスが開城市内を大量に走っている 2005年8月撮影。開城百貨店。営業しているところを一度も見たことがない。
 青いバスを目撃した数分後、もう一つの昼食会場である統一館前を通過したのだが、ここで5号車から15号車までが我々のバスを待機していた。次の訪問地、ッ陽書院で合流すればいいと思うのだが号車順に走るように決められているのだろうか? このツアーの厳格さを思えばありうる話だ。現代アサンのスタッフはトランシーバーで頻繁に連絡を取りあっていたし。

 ところで統一館の向かいには「開城百貨店」と書かれた建物がある(上の画像参照)。前述したように開城での昼食は統一館が多く、開城百貨店も自然に目に入るのだが、この開城百貨店、営業しているところを一度も見たことがない。しかし、今回は大きな変化が見られた。屋上部に「抗日の女性英雄金ジョンスク同志について学ぼう」とのスローガンが誇らしげに掲げられていたのだ(写真は撮れず)。なぜ主席でも総書記でもなく、総書記の母である故金ジョンスク女史?との疑問は残る。でもやっぱし営業はしていなかった。

 開城百貨店にはもう一つのナゾがある。外国人が多く訪問し、いやでも目に触れる機会の多いこんな場所に、まったく機能していない開城百貨店を晒しているのはなぜかということである。これに関しては綾羅888同志からの情報がある。「 【開城百貨店】開城市の子男山の麓に建設された百貨店。1972年9月14日、偉大な領袖金日成同志が現地指導した意義深い百貨店である。建築面積1750平方メートル余り、延べ建築面積3526平方メートルである同百貨店は、1972年6月18日に開店した。建物の内部は売り場ホールを基本としており、空間を広くとった。同百貨店は平面組織において商店管理運営の複雑性をなくすために、従業員と客の動線交差を避けるようになっている。(『朝鮮大百科事典』第4巻、百科事典出版社、1996年)

 ギャハハ!!「従業員と客との動線交差を避ける」って、店が閉まっていたんじゃ動線も何もあったもんじゃなだいろってーの。ただ1972年に主席が現地指導した意義深い百貨店とあっては閉店寸前でも取り壊しどころか大切に残さなきゃいけない・・・ってことなんだろうきっと。情報をくださった綾羅888同志に感謝します。

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